しかし、そのような厳しい状況下でも、僅かに存在した流派もありました。
その流派とは、薩摩藩に示現流、肥後に二天一流、人吉藩に体捨流、土佐藩に無外流、亀山藩に心形刀流、秋田藩に念流。
そして、松江藩に不伝流。
これらの流派が御家流として江戸時代を通して存在していたのです。
松江藩では特に七代藩主松平不昧公の時代は幕府隠密から狙われており、
松江藩の情勢を探りに忍び込んだ幕府の隠密が、不伝流の餌食になったと記録に残されております。
この戸田不伝とは、徳川傘下の武将の家柄であり、徳川家の為に多くの死者を出していた家柄なのです。
戸田一門にありながら、卓越した技量と損得の無い人柄が徳川家康公に認められ、戸田不伝は家康公の警護役(現代のボディーガード)を職務としていた人物だったのです。
たとえ親族であっても命を狙われる時代であり、家康公は身辺警護の者達へ戸田不伝から不傳流を伝授させた言われております。
こうして、徳川家康公を守護する剣として不傳流剣法が確立したのです。
家康公亡き後、戸田不伝は松江藩へと移り、その功績から家康公の孫である松平直政公に仕え、後に松江藩御家流となる不伝流居相術の礎となりました。
享保十年、戸田不伝の嫡子である三代宗家戸田重政が他界したため、不傳流に師事していた伊藤長太夫次春が享保十五年に松江藩士官します。
伊藤長太夫は浅山一伝一存の高弟であったとされ、おそらくは一存没後に戸田重政へ師事したと推測されます。
不傳流剣法へ浅山一伝流の技術を組み込み、新たに不伝流居相を確立し、松江藩御家流として広く伝えていくのでした。
不伝流の最盛期とは、七代藩主不昧公の時代、門下3000名を数え、不昧公みずからが不伝流の奥義を体得し、新たな工夫を加えました。
そして、その松平不昧公の時代に松江藩戸田家の六代目が嫡子無いままに他界。
戸田家に藩主不昧公の次男が跡目相続というかたちで家督を継ぎました。
このことにより、名実共に不傳流と徳川家康公の血脈が繋がり現在まで続いているのです。
武道とは、苦行無くして道遠し・・・・・
誰しもが思いつく言葉です。
不伝流においては、師範自身の極めと祖先伝来の技の継承により、厳しい修練無くしても極められるものだと思います。
確かに血のにじむ努力により培った業には凄みがありますが、老齢と共に萎え、業の威力も消滅してしまいます。
しかし、不伝流とは技術と力量ではなく、心の技と身体の技との同調により空の境地を誘い、相手の虚に対処するものと云えます。
己が空なれば、何人と云えども捕らえる事が出来ません。その極限といえるのが、不伝流最奥義である神の巻と云えましょう。
不伝流心得とは、技術だけでなく人との調和も含め、人間性の向上を第一とします。
現在の人々の生き様と死に様を知る事により、人としての広がりが望めるのではと思います。
以上のように、不伝流とは技と技の修練とともに、過去の武人に想いを馳せながら、共に仲間達と学ぶ場でもあるのです。
宗家 戸田不伝
■不伝流十四世宗家 戸田不伝
範士九段。居合道歴30年。
開祖・伊東不伝の直系で、十四世にあたる。
戸田家に伝わる古文書から不傳流剣法を復元し、現代に蘇らせる。
松江戸田家七代当主の戸田藤馬は松平不昧公の次男であり、曾祖母は千家尊福公の妹にあたる。
千家氏と徳川氏の血を引く。